短いようで長い窓の杜の足跡
窓の杜、これまでの5年
(01/10/15)
窓の杜は10月14日に満5歳になった。5歳の子供はとても小さいけれど、コンピューター業界での5年はとても長い年月だ。創立からの5年間は、実に紆余曲折があった。窓の杜創立者のひぐちたかし氏、創立メンバーの齋藤正穂氏、山本幸広氏の協力を得て、足跡を振り返った。
窓の杜夜明け前
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ひぐちたかし 氏 |
窓の杜の名前の由来をご存じだろうか。ご察しのとおり窓の杜の発祥の地は、杜の都仙台。当時は窓の杜という名前ではなかったが、仙台の東北大学にあるサーバー内に窓の杜の原型が誕生した。1994年、まだごく一部の人しかインターネットを利用していないころだった。
オンラインソフトというものは、すでにパソコン通信の世界では広く流通していた。しかしまだインターネット上では配布されておらず、各大学のサーバー管理者等によって、パソコン通信からインターネットサーバーへの転載が行われていた。当時大学院生として東北大学に在籍していたひぐちたかし氏は、学内ボランティアとしてその作業を担当していた。
だが、どこのサーバーにどのソフトが転載されているかという案内的Webページはなく、Archieなどの検索システムを使ってファイル名で検索するしかないなど、必ずしも使いやすいものとはいえなかった。ひぐち氏は、アメリカの某大学にFTPサーバーに転載されたオンラインソフトの紹介ページを見つけ、「こういうのがほしかったんだ!」と思った。そしてさっそく、大学内のサーバーにおいていた個人のWebページにオンラインソフトの紹介ページを新設した。サーバーの名称は、仙台市郊外の秋保(あきう)温泉が由来の“Akiu”だったため、Webページに「秋保窓」と名付けた。これが日本初のオンラインソフト紹介サイトの誕生だった。
杜の都から大江戸へ
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齋藤 正穂 氏 |
「秋保窓」は、まだオンラインソフト文化の主流だったパソコン通信や、口コミ、ようやく商用ベースにのりはじめたインターネットを通じて広まっていった。Yahoo! JAPANもgooもないころに、知る人ぞ知る人気サイトになった。ところがすぐに問題が発生。当時の回線容量はいまとは比べものにならないくらい少なく、トラフィックの多さが大学内で問題になった。すでに「秋保窓」へのアクセスは、学外からが95%にまでなっていたのだ。ひぐち氏は悩んだあげく、サイトの移転を決意した。募集には12~3社あり、最終的にインプレスを選んだ。ひぐち氏曰く、バックボーンの強化などにいち早く取り組み、ヤル気を感じたとのことだ。そして1995年夏からサイト移転作業に入り、10月14日、インプレスにオンラインソフト紹介サイトが誕生した。名前は一般公募もしたが、Windowsで動くいいソフトが森のように集まっていること、そして発祥の地を表す“杜”の字を当てた「窓の杜」に決まった。
窓の杜を支えていたもののひとつに、メーリングリストがあった。最盛期には加入者が1万人を超えていた、国内でも最大規模のものだった。秋保窓時代からメーリングリストは運営されており、窓の杜になってもそれは受け継がれていた。メーリングリストの管理者だった齋藤氏は語る。「窓の杜MLは、インプレスのWatchシリーズのいい実験場にもなれたと思う。当時はそれだけ多くのメール流通を扱えるしくみは手探り状態だったのだから」。窓の杜MLはメール版窓の杜の原型だったのだ。
窓の杜は当初、オンラインソフトを紹介し、ダウンロードサイトも備えることで、どちらかというとオンラインソフトの再配布場所としての色彩が強かった。ソフトライブラリに収録したソフトでバージョンアップしたものは平日は毎日更新するというサイクルは、次第に負担になっていった。収録希望は殺到し、ダウンロードしてインストールし、動作確認をしたうえでソフトを評価するという工程、さらにウイルスチェックをしてFTPサーバーに転載するという工程は、限られた人数のスタッフではこなしきれず、大量のバックオーダーを抱えてしまう。インターネットの普及とともにオンラインソフトの数は増え、ユーザーの数も指数倍数的に増大していた。ひぐち氏プラスボランティアという、秋保窓時代からの運営スタイルの限界だった。そしてある日、ひぐち氏は倒れた。
方向転換
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山本 幸広 氏 |
インプレスに移転し、名称やページデザインは変わったが、運営形態は秋保窓とほぼ変わらなかった。ひぐち氏に加え、サーバー転載担当の齋藤氏と山本氏が運営に参加した。さらに秋保窓で運営されていたメーリングリストも窓の杜MLとして継承し、管理は齋藤が担当した。窓の杜のサーバーはインプレス内に設置されていたが、各人の作業はオンラインでのリモートアクセスで行われていた。
もはや運営方法を変えるしかなかった。インプレス社内に編集部をおき、従来の分散型から中央集権型の作業スタイルになった。社外スタッフとなった山本氏は、編集部の要請で福岡と東京をひんぱんに往復した。主な持ちものはハードディスク。自宅での作業を編集部で行うには、これがいちばん効率がよかった。オンラインでのリモートアクセスではこなしきれない作業量になっていたのだ。
スタッフを増員し、ソフト作者からの掲載依頼に応えるべく作業を続けたが、ついに限界に達した。断腸の思いで受付中止宣言をし、期日までに受け付けたソフトの掲載を約束した。このできごとは、秋保窓から受け継がれていた運営スタイルの破綻だった。
メディアへの変身
ダウンロードライブラリだけのサイトから日刊メディアへの変身は、オンラインソフトをさらに世の中に広めたいというねらいがあってのものだった。新しくておもしろくて便利なソフトをどんどん紹介したいという意気込みだ。日々新しいものが生まれ、更新されているオンラインソフトの世界。メディアとして対応していくには日刊しかない。インプレスのWatchシリーズとして、ソフトライブラリとオンラインソフトのニュースメディアを兼ね備えたサイトに変身した。
読者層は窓の杜立ち上げ時と比べて大きく変わった。当初は初心者はあまり訪れない“濃い”サイトだった。ところが5年たった今では、初心者も女性もかなり増えている。それだけパソコンやインターネットといったものが世の中に広まったといえるだろう。
ブロードバンド時代を迎え、アプリケーション・サービス・プロバイダーも立ち上がるなか、オンラインソフトをとりまく環境はどんどん変化している。しかし、コンピューターがどのような形態になっても、ユーザーが成果を得るのは主にソフトからだ。これからも窓の杜は新しく、おもしろく、便利をキーワードに、オンラインソフトを紹介していく。
(山口 賢司)