【第32回】
オンラインソフト社会の構造改革(前編)
~ユーザーと作者の今昔~
(01/10/29)
この5年で変わったこと
先日窓の杜も5周年を迎えることができた。振り返ればあの頃と今では、オンラインソフトをめぐる社会が実にいろいろな面で変わってきたと感じることが多い。もちろんWindowsが95、98、Meとバージョンアップして開発環境が変わってきたことなどで、オンラインソフトの質が変わったというのもある。しかしそういった目に見える部分以外に、普段あまり見えてこない部分、特にオンラインソフトをとりまく人々が随分変わってきたように感じるのだ。
1年近く前のことになるが、あるフリーソフトの作者が、ホームページでこんなことをつらつらと書き綴っているのを見たことがある。ユーザーサポートで頭が痛い、ユーザーから自分のソフトとは関係ない質問がたくさん送られてくる、ヘルプを読んでないと思われる質問が多くてウンザリする、などなど。1通や2通ならまだしも、数十通、数百通レベルになると返信するのもおっくうになる、と正直な心境を吐露してあって、読んでいても他人事ながらお気の毒になってしまう。しかしこうした作者側の悩みというのは、昔に比べてユーザー層が変わってきたゆえのことではないかと、ぼくは思う。
昔のユーザーは“勤勉”だった
当たり前だが昔は、今ほどパソコン利用者が多くはなかった。Windows 95の登場によってユーザー層がぐっと広がったとはいえ、まだまだオンラインソフトを作る人も使う人も“マニア”のイメージが残っていたように思う。オンラインソフトに興味のある一部の人だけが積極的に自分でマニュアルや雑誌を読み、たまには四苦八苦しながらも使い方を覚えて、その便利さを味わうという感じだった。実際、パソコンの使用感やパソコンを取り巻く環境も、今ほど初心者にやさしいものではなかったから、率直なところそうするしかなかった、といったところだろうか。ソフトを使うためにはまずヘルプやREADMEを読みながら自分で設定を行い、その使い方をマスターしなければならない、というのがごく当然のことだったのだ。
パソコンを買ってオンラインソフトを使い始めるまでの門戸が狭く敷居が高い分、それを乗り越えてきたオンラインソフトユーザーは、すでにある程度の知識やトラブル対処のための知恵を自然と身につけていた。残念ながら乗り越えられなかった、例えばぼくの父のような人は、パソコンそのものから遠ざかってしまったり、たまに起動しても標準でインストールされているワープロソフトなどを少々使うだけで満足して、オンラインソフトに関しては“ユーザー”にすらならなかった。そんな敷居の高さがフィルターとなり、結果的にユーザーのレベルを上げていたようだ。そのため作者が初心者ユーザーのサポートに頭を悩ますことも少なかったのではないだろうか。
今のユーザーは努力しない?
これに対して、今のオンラインソフトユーザーはどうだろう。「パソコンを買ったその日からインターネットが使える」といったような、ウィザードを多用した至れり尽くせりの仕組みが、逆に言えばユーザーの“向学心”や“努力”を失わせてしまった、と言うと言いすぎだろうか。今の初心者ユーザーは自分で調べるということをしなくなっている、という意見をよく耳にする。とかくWindowsやアプリケーションが簡単に使えることがアダとなり、かえってヘルプやマニュアルを読むという習慣が当たり前でなくなってきているせいだろう。また、パソコン人口が多くなった分、困ったときはすぐ周りの誰かに聞くことができるし、パソコンメーカーや市販パッケージソフトのサポート窓口も充実しているから手軽に電話することもできる。このような環境に慣れてしまい、そうした手厚いサポート体制と同じような感覚でオンラインソフトの作者にも安易に質問メールを書いているのかもしれない。
さらに、今では当たり前となった雑誌の付録CD-ROMも、オンラインソフトユーザーのすそ野を広げてきたと言えるだろう。“ダウンロード”の意味がよくわからなくても、従量制のダイヤルアップ環境でインターネットの接続時間が気になっても、多数のオンラインソフトをオフラインで簡単に手に入れられるのだ。雑誌付録CD-ROMが、さらなる初心者層へオンラインソフトの普及を進めたことは確かだろう。こうしたさまざまな要因から、パソコンユーザーのすそ野が広がり、オンラインソフト初心者の絶対数は格段に増えているはずだ。したがって、作者を悩ませるようなメールを送ってくるユーザーの数も、比例して増えているということになる。メールを送るユーザーのほうは1対1のつもりで質問を書いていても、受け取る作者側は同じようなメールをすでに何十通、何百通も受け取っている可能性はあるのだ。
変わる作者意識
こうしたユーザー層の変化が、作者側の意識にも大きく影響しているように思われる。ユーザーが少ないうちは、自分のソフトを使ってくれているユーザーなのだからと、どんな質問でも懇切丁寧に答えたり、多少の失礼な文面であっても我慢できる作者は多かったのではないだろうか。ところが今のようにインターネットユーザー、ひいてはオンラインソフトユーザー全体の数が増え、1日のダウンロード数が1,000以上あるようなソフトも珍しくなくなってくると、それだけ初心者的な質問メールも増え、受け取る作者の心境が「ウンザリ」「ヤレヤレ」に変わってしまっても仕方ないのかもしれない。
もう一つ、オンラインソフトに対する作者の取り組み方も、昔と今ではかなり違いがあるように感じている。それは、よもやま話の第16、17回で取り上げたフリーソフトの多様化とも関係しているのだが、作者がオンラインソフトを作ることで何を期待しているかという思惑にはさまざまなものが出てきていて、それに伴いオンラインソフト作者の意識やユーザーサポートの考え方なども、多様化して変わってきていると思うのだ。
“オンラインソフトの精神”はもはや幻想なのか!?
昔からオンラインソフトを作っている作者の中には、オンラインソフトに対する特別な思い入れがあるようだ。特にフリーソフト作者には、フリーでソフトを作って世間に公開しているのだという、“フリーソフトの精神”といった言葉に象徴されるようなある種の気負いやプライドをもっている人が多かった。シェアウェアも同様で、「気に入ったら対価を払ってくれ、気に入らなければ別にお金は要らない」といったプライドをもって公開している作者は多かったように思う。そのため、作者だけでなく利用する側も含めて、オンラインソフトというものは何かそのへんの量販店で売ってるような普通の商品とは違う、特別な存在という感覚があった。
もちろん今でも、そうした気概で“作品”を公開し続けているオンラインソフト作者は少なからずいることだろう。だが、そうじゃない作者も増えたことは、フリーソフトの多様化を見ても容易に想像がつく。ソフト作者という集団の全体像を考えるとき、かつて言われたような“フリーソフトの精神”とか、“オンラインソフトの精神”といった独特のイメージの言葉は、もはや似合わなくなっていると言っても過言ではないように思えるのだ。現在のオンラインソフトをいつまでも昔の感覚のままで語ることは、ぼくのような旧世代の“幻想”や“願望”にすぎないのかもしれない。
さて、こうしてオンラインソフトをとりまく人々がここ数年で変わってきたことによって、現在ではさまざまな歪みが生じているように思える。オンラインソフトの社会にもそろそろ根本的な構造改革、ユーザーと作者の意識改革が必要なのではないだろうか。次回のよもやま話では、そのあたりの問題や解決策などについて、ぼくなりに考え感じていることを書いてみる予定だ。
(ひぐち たかし)