【第34回】
オンラインソフト社会の構造改革(後編)
~責任の向こうにあるもの~
(01/11/12)
公園での怪我は自己責任?
先週のよもやま話では“著作物が人々に広く利用されるという社会責任”について触れたが、「フリーソフトやシェアウェアを使うということは、ある程度のスキルが必要であり、リスクもあって当然だ。そのリスクを減らすためにユーザーが自分で知識を身につけ、操作を覚えてスキルを養うべきだ。もしそれを怠ってトラブルが起きたとしても、作者に悪意がない限りユーザーの責任であって、作者に責任を問うのはおかしい」という意見もあるだろう。
このことを例えば、公園のジャングルジムを例に考えてみよう。ジャングルジムは著作物ではないだろうが、公園という場に公開され子どもたちに広く利用されるという意味ではオンラインソフトと似ている部分がある。ジャングルジムに登るためには、体を支えられるだけの腕力や握力、言い換えれば経験とスキルが必要だ。それがないと落ちて痛い思いをすることもあるし、てっぺんまで登って両手を離すといった無茶をすれば大怪我にもつながる。しかしその怪我は、あくまで本人(もしくは保護者)の責任であって、ジャングルジムや公園を提供している側、つまり市町村などの行政側の責任ではない、ということになるだろう。
しかし、それでもぼくはあえて次の点で、こうした認識こそ今後は改めるべきではないかと言いたい。やはりジャングルジムを提供する行政には、最低限の責任はあるし、オンラインソフトを公開する作者にも、最低限の責任はあると思うのだ。
利用者を危険な目に遭わせないという責任
ジャングルジムで無茶をして怪我をするのは本人の責任という点についてだが、少なからず認識のずれがあるように思う。確かに小さな子どもが初めてジャングルジムに登ろうとすれば、落ちて痛い思いをするのは目に見えている。それは仕方ないことだし、もし怪我をしても本人の責任、もしくは子どもの能力を知りながら止めなかった保護者の責任ということになる。しかし、もしそのジャングルジムが錆びて壊れていたとしたらどうだろう。壊れていて危険なことを住民から通報されていながら、行政側が何もせずに放置していたようなジャングルジムに登った子どもが怪我をしたのなら、それは本人ではなく、まさに行政側の責任ではないだろうか。たとえ壊れているジャングルジムをすぐに直すことができなくても、周囲を囲って立ち入り禁止にしたり、看板や貼り紙で注意を呼びかけるということはできるはずだ。
自作のオンラインソフトを世に提供するということは、公園を整備してジャングルジムを子どもたちに提供するのと確かに似ている。利用する側にはそれなりのスキルが求められるが、一方で提供する側にも利用者を守るという責任はあるはずだ。少なくとも利用者を制限せず誰でも利用できるようにして世に公開する限り、誰が利用しても大きな危険がないよう最低限の整備をすることは、提供する側の責務ではないかと思う。
しかし、現在のオンラインソフトの中には、この最低限の整備にあたる責任の部分までも“利用者の自己責任”という言葉でその責任を放棄し、結果としてユーザーに負わせてしまっているものが多いように見える。これがぼくには気になって仕方がない。最低限の作者責任をも放棄してしまうことが、今後オンラインソフト社会で問題になる可能性はあっても、果たして社会をよくすることにつながるとは、とても思えない。
責任とサポートの違い
それからもう一点、オンラインソフトにおける作者責任の範囲が、ユーザーサポートとごっちゃになっているのではないかということについて、誤解がないようにしておく必要がある思う。責任とユーザーサポートは、似ているようで違うものだということをここでハッキリさせておきたい。努力しようとしている初心者に対して、作者や周囲の上級者がナビゲートするのは“ユーザーサポート”であって、これは作者がとるべき“最低限の責任”や“整備”の範囲には入らないとぼくは思っている。
前回、オンラインソフト作者の責任はソフトの金額の問題ではないと書いたが、1本が何万円もするような高価なパッケージソフトと、1本が500円程度のシェアウェアや無料のフリーソフトが、ユーザーに対してまったく同レベルの“ユーザーサポート”を求められるというのは、実際には無理があると感じても当然だ。電話でのサポート窓口を用意したり“懇切丁寧”なヘルプを作成したりといったことは、作者の責任というよりはむしろサービスに近い。時間や人件費のかかるサービスが、その対価に応じて設定されるのは、資本主義社会では当たり前のことだ。ぼくが今回論じている“責任”とは、そういったサービスに属するサポート体制のことを言っているのではない。
今回ぼくが言う作者の責任とは、自作ソフトを世に公開する上で、作者が意図しなくても大きな危険が発生する可能性がゼロではないなら、ユーザーが守られるために最低限、すべての作者に科せられる義務があっていいはずだということだ。その一方で、義務ではないユーザーサポートが作者の厚意や有償・無償のサービスという形で存在する。さまざまな質問をしてくる初心者に対して作者が行うサポート活動は、義務ではないが任意で行われるサービスなのだ。
作者が負うべき現実的な責任・義務とは
では、現実問題として具体的に、オンラインソフト作者にはジャングルジムの最低限の整備にあたるような、どういった“責任”の取り方があるだろうか。
責任や義務というとすぐ“賠償”といった言葉が浮かんで、例えばフリーソフトのバグでHDDを初期化されてしまったらその損失の弁償をソフト作者がしなければならないのか、と思う人もいるかもしれない。しかしぼくはそうした賠償問題はちょっと違うと思うし、まぁ法的な問題は専門家に任せるとして、もっとオンラインソフトらしい責任や義務の果たし方があると思っている。
例えば、自作のフリーソフトに危険なウイルスが混入していて、それに気がつかずに作者がホームページで公開してしまった場合を考えてみよう。そのウイルスが伝播したために甚大な被害が広がったとしても、それをフリーソフト作者が賠償することになるのは確かに妙な気がする。むしろその作者もウイルスの被害者なのだ。過去の報道を振り返っても、公開されているオンラインソフトがウイルス感染している可能性がゼロではないというのは事実だが、それはユーザーが負うべき“リスク”だ。故意など悪質な場合を除き、作者がウイルス対策を行っていたにも関わらず感染を見逃してしまったなら、そのこと自体に対しては必ずしも作者に賠償のような形で責任を問うべきものではないだろう。ウイルスがそれだけ巧妙になっていることもあるのだから。
危険を公表するという義務
しかし、賠償責任を問われないからといって作者が何もウイルス対策をしなくていいわけではない。自作のオンラインソフトを公開する前にはウイルスチェックするべきだし、もし公開した後に感染していることがわかれば、可能な限りただちに公開を中止し、ウイルス感染の事実を公表する必要がある。ダウンロードしたユーザーがウイルス感染したかもしれないということを知ることができるようにしなければならないだろう。
HDDを初期化するような危険性の高いバグについても同じことが言える。そのバグを“修正(して公開)”する義務は作者になくても、危険なバグが見つかったなら隠さずに可能な手段でユーザーに知らせる、公表するという義務はあっていいと思う。また、危険なバグの潜んだソフトを修正できなくても放置せず、可能な限りただちに配布を中止するという義務もあっていいはずだ。それによってユーザーの被害を最小限にとどめることができ、ユーザーを守ることができる。こうした“情報公開”こそが、オンラインソフト作者に科せられた現実的な責任であり、義務であるとぼくは思っている。
情報公開の重要性
幸いにして過去には、ウイルス混入や致命的バグが見つかっても多くの場合そのソフト作者たちは自主的にこうした情報公開を行ってきた。おかげでこれまでは深刻な問題が起こっていないようだ。だから、今さら義務だの責任だのと、うるさいことを言う必要はない、と感じる人もいるかもしれない。しかし、作者層も変わってきている現状を踏まえた上で、今後もずっと大丈夫だと言い切れるだろうか。こういった責任や義務を明確ではないにせよ自覚して、ソフトを公開している作者も確かにいる。しかしその一方で、こういった自覚をそれほど持たないままソフトを公開する作者も少なからずいるはずだ。
昨今の狂牛病問題などを例にあげるまでもなく、問題に対する“情報公開”の不徹底によって被害がいっそう深刻になることは、十分あり得る話だろう。そのせいでオンラインソフト全体が不信感をもたれてしまう結果になる可能性だってぼくはあると思っている。何か大きな問題が起こってしまってからあれこれ取り決めるのではなく、今のうちに“オンラインソフトを世に公開する”ということに対して、それぞれが“情報公開”などの責任意識をしっかり持つことが、そろそろ必要なのではないだろうか。
ユーザーが認識すべき責任範囲
一方、最近増えている初心者ユーザーの中には、このような作者責任とユーザーサポートをごっちゃにして、サービスとしてのユーザーサポートをフリーソフトやシェアウェアに求めようとする傾向があるようだ。ヘルプやREADMEを読むなどして自分で調べる努力をせずに、『聞くほうが早い』『聞くは一時の恥』と思って安易に作者に尋ねたり、サポート掲示板に書き込んだり、身近にいるベテランユーザーに聞きまくるといった行為は、歓迎されるものではない。自分よりもできる人を“自分のユーザーサポート係”だと思ってはいけないのだ。
シェアウェア作者に対して『お金を払っているユーザーの質問に答えるのは当然』と思うのも、同じく大きな間違いだろう。この連載でも何度か書いた話だが、一般にユーザーサポートはシェアウェア料金には含まれていないものだ。もし快く教えてくれる作者がいたとしても、それは決して当然のことではなく、あくまで教えてくれる側の厚意(“好”意の場合もある)、つまり特別サービスなのだということを肝に銘じなければならない。責任とサポート、この違いをユーザー側も正しく認識していれば、作者とうまくコミュニケーションを取ることは決して難しくない。
メディアにも責任がある
さて、ここで少し視点を変えて“初心者を増やした側”の責任についても触れておこうと思う。前々回書いたように、オンラインソフトが一部のパソコンマニアだけのものだった時代は、“敷居の高さ”によってパソコン初心者はオンラインソフトに近寄ることもなかった。そのためにトラブルも少なかったと言える。しかし、Windowsが初心者にも使いやすくなり、パソコン雑誌や窓の杜のようなWebサイトなどさまざまなメディアでオンラインソフトが紹介されたことで、使ってみようかと思う人が増え、初心者を増やしてきたことは事実だろう。それだけに、初心者を増やした側の責任として、ソフトを紹介しっぱなしにするのではなく、初心者をナビゲートして作者に“困ったメール”を送らないようにすることは必要だ。
もちろんメディアの責任は、初心者に対してだけではない。オンラインソフトを使うユーザーを広く危険から守り、知識が少なく意識の薄いユーザーには啓蒙して、さまざまな法律違反を犯させないといった“責任”は、オンラインソフトを紹介する側にも問われてしかるべきだ。オンラインソフトを扱うメディアが果たすべき義務についても、改めて議論されるべきだろう。
社会構造を変える力
オンラインソフトは独特の“文化”を生み、コンピューターネットワーク上でひとつの“社会”を形成してきた。しかしその社会がますます大きくなり、それにつれて社会を構成する人々や環境が変わってきたことによって、従来の概念や価値観では通用しないさまざまな歪みが生じてきている。今こそ初心者ユーザーも上級者ユーザーも、作者もメディアも、オンラインソフトに対する責任意識や常識を改めて見直さなければならない時期が来ているように思うのだが、いかがだろうか。
今後の“よりよいオンラインソフト社会”を作るのは、作者、ユーザー、メディアという、オンラインソフトに関わるすべての人たちだ。それぞれの自己主張が強くなりすぎてしまうと、破綻しかねない危険性を持っていることを忘れてはならない。まずは現状を理解した上で、新しい、居心地のいい健全なオンラインソフト社会を築いていくためにはどうすればいいのかを、一人一人が前向きに考えてみてほしい。そこにはいろいろな意見があるだろう。ぼくとは異なる考えを持つ人もたくさんいるかもしれない。しかし、そうしてオンラインソフトに関わる少しでも多くの人たちが、今起こっている、そしてこれから起こりうるさまざまなトラブルを克服しようという意識をもつことが、オンラインソフトの社会構造を本当に変えていく力になると思うのだ。
(ひぐち たかし)